2003年9月11日夜 マンハッタン・ワシントンスクエアから撮影
"人間の魂は所業の大きさではなく、精神の大きさで測られる"
思い出しました
茶トラ1・サバトラ2がおりなす Hungry Tiger な日々. 番外編 Parent's Room, 姉妹サイトBistro Tunesもどうぞ.
そうでしたね、もうニュースでもあまり取り上げていませんね。
私は1996年の1月に世界貿易センタービルに登りました。
といっても、もの凄いスピードで上昇するエレベーターぐらいしか
覚えていないんですけどね(笑)
もう、無いんですね。
投稿情報: marika- | 2010/09/11 20:21
marika-さん
私もWTCの展望階には何回か上がりました。
そういう方もいらっしゃるかと思いますが、Liberty島からマンハッタンを背に、WTCのある写真とない写真の両方が我が家にはあって、それを見ると考えちゃいますね。
投稿情報: Cat's-paw | 2010/09/11 21:13
実際にアメリカに行ったことはないですが、
9.11のツインタワー崩壊の直後に(10日後らしいですが)、
テロ犠牲者追悼番組(ニール・ヤング等が出演)を企画するような
アメリカが好きでした。
なので、その後の10年間が、とても残念です。
投稿情報: mewts | 2010/09/11 22:48
mewtsさん
下の写真の幕の張られたところは、本来WTCのビルで隠れているはずの建物です。
大きな野球場一つ分ほどの面積がそっくり空っぽになったんですね。
テロから2年後のこの日、グラウンドゼロでは追悼式が行われていて、道路のある撮影位置にいた私たちにも市の職員からミネラルウォーターを差し入れされました。
特別な日、暑い中集まってくる人たちに飲料水を配る街ニューヨーク。
投稿情報: Cat's-paw | 2010/09/11 23:07
報道番組で伝えていた、事故直後の機内の音声は今でも忘れられません。「もうウチには戻れないかもしれない」「悲しいこと(別れ)と大事なこと(愛情)を伝えておくわ」「多分これが最後の言葉だ。…いつまでも愛している」聞いた限り、殆ど涙声でした。そこに今でも残っているのは、犯罪者の所業ではなく、残される大切な人々を最後まで想う気持ちなんですね。
投稿情報: ミント | 2010/09/12 15:03
帰りの遅い夫を待ちながらぼんやりテレビで見たあのニュース、
今も覚えています。
もう10年も経ったなんて。
その時NYから第一報を知らせていた特派員は
私が短大の1年生だった時合同の部活で
大変お世話になった先輩(当時大学4年生)でした。
日本に中継される映像だとWTCに突っ込んでいく(2機目)飛行機が
ありのままに映し出され、中継をする先輩は
『私の位置からでは確認できません』と。
多くの命があんな風に終わってしまった痛手は、
復讐ではあがなえないと思います。
悲しみの記憶も、憎しみの連鎖も
どんな風にしていけばいいのか
この時期いつも考えます。
投稿情報: シュール・リー | 2010/09/12 16:45
ミントさん
人間の尊厳とは何か、そんなことを考えさせられますね。
交換条件を提示するハイジャックとは違う、妥協のない復讐の怨嗟を利用した究極の攻撃である一方、自爆を選択する人間を生み出すことができる組織とは何なのか、それは特攻隊のように極めて優秀な操縦技能を持った若者を積極的に失おうとした日本とどう違うのか、夏は色々なことを考えさせます。
投稿情報: Cat's-paw | 2010/09/12 19:54
シュール・リーさん
旅客機が突入する場面を現地で目撃した人のショックは全く想像できるものではありません。テレビ越しに見た映像を一瞬、「ハリウッド映画か?」と思ったとしたら(自分も含めて)平和という名の下で安全を当たり前としてきた価値観に疑問を持つ必要があるのだと思います。
アメリカでも、どんな田舎であろうとクルマをUターンさせようと他人の家の庭に乗り入れたら住人がライフルを持って出てきます。銃規制が進まない理由である建国の精神がそれを可能としているからです。
投稿情報: Cat's-paw | 2010/09/12 20:18
難しい問題ですね。
人はこれほど何かを憎んで生きて行けるのかと思います。
そのような精神構造になった長い歴史を辿るとめまいがしそうです。
そしてその復讐によって無関係なはずの人が「その時」を境に一瞬に亡くなる。
家族友人は到底受け入れられませんよね。
憎しみを糧に生きている人に対しても軽々しいことは言えません。
誰だって微笑んで生きていたいはずだから。
ネコがあくびするのをこちらも素直に笑って眺められるのは
自分がこの時代に、この国に生まれたという偶然からなんだと、
偶然の幸せの尊さを感じます。
投稿情報: さら | 2010/09/13 00:59
さらさん
そうですね。個人の信仰であれば、寛容な心を持ち続けるということは不可能ではないと思います。しかし、その括(くく)りがだんだん大きくなるに従って幸福感ではなく憎しみのようなネガティブな感情ばかり共有し易くなるような気がします。
何がネガティブなのか、の解釈がそれぞれ違うのでしょうが。
投稿情報: Cat's-paw | 2010/09/13 12:32